障害者の「生産性」が問題となるとき

2016.8.1 ライフスタイル
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さやや

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障害者自身が何かを生産し、社会に評価されると、それが障害者全体の地位向上にもつながる、ひいては本当の「自立」に繋がるというサイクルを私は障害者施設で学びました。

障害者といえど、健常者と変わらず、生産性を追い求めていきたいものです。

 

さて、ここで改めて「生産性」とは何かを考えると、

インターネットには次のように紹介されていました。

 

生産性:

生産のために投入される労働・資本などの生産要素が生産に貢献する程度。生産量を生産要素の投入量で割った値で表す。

 

http://www.weblio.jp/content/%E7%94%9F%E7%94%A3%E6%80%A7

より引用

 

アウトプットがインプットに対してどれだけの割合かを示す指標です。

 

 

生産性がない中で幸せを探し求める障害者

 

障害者には「生産性」がないと言われます。

私が思うに、ここでいう生産性とは効率の良しあしや生産する力のことを指しており、何を生産する力かというと、「価値」を生産する力ではないかと思われます。

この世で「値打ちがある」とか「価値がある」と呼ばれるもの効率的に生み出す力。

一般的に障害者はコストがかかる割には値打ちのあるものを生み出さない存在なのでしょう。

 

生産性のある人と生産性のない障害者を区別し、後者をガス室に送り込んだナチスの話もあります。

 

そして2016年7月の相模原障害者殺傷事件の背景には、「障害者は社会の役に立たない」という考えが容疑者の中にあったという風に聞きます。

 

 

 

資本主義社会で、社会の役に立たない生産性の低い存在は忌み嫌われます。

 

障害者の中で自ら望んで障害者になった人などいないことを考えると、不公平な仕打ちです。

 

本当は程度の重い障害者であっても、みんな複雑な事情を抱えながら、自分なりに幸せになろうと、あるいは社会から受け入れられようと頑張っているのです。

 

 

 社会に受け入れられるために

冒頭で私は生産性を高めていきたいとお話ししましたが、

その一方で、障害者が社会から受け入れられるには、生産性を高めることだけが正解だとは思わないのです。

 

障害者みんなで生産性を高めて人々を見返す

 

こともひとつの手段ではありますが、

 

障害者ひとりひとりが「自分のペースで頑張る」

 

こともひとつの手段だと考えています。

 

 

 

「生産性を何がなんでも上げろ!それがあなたの幸せだから!」

と強制することが障害者の幸せとは限りません。

 

「あなたのペースで頑張れ!」ということこそが多様性を認めるということであり、障害者福祉のあり方なのかもしれません。

 

人々に多様性の大切さを教える存在ーそれだけで社会にとって大きな価値ではないかと感じます。

 

私の通う障害者施設は就労継続支援事業所と呼ばれていて、一般就労を目指すので高い生産性が求められます。

私は生産性向上が生きがいだったりします。

 

でも、障害の程度が重い方はたくさんおられて、そういった方たちに生産性を押し付けるのは不適切なのかもしれません。

 

「自分のペースで頑張る」ことが使命な方がたくさんおいでます。

 

そして同時に彼らの使命を世に知らしめ、広めてく存在がいると思うのです。

 

見た目・言動・言葉を通して生産性を上げることのできない存在がいたとしたら、

「彼らは自分のペースで頑張っているんだよ」ということーそしてその大切さを誰かが伝えなくてはいけません。

 

 

さいごに

相模原障害者殺傷事件があって、私は生産性と人々の多様性について考えるようになりました。

 

生産性のない障害者を排除する危険な思想が蔓延する社会よりも、障害者が共存できるように、多様性を許し合う社会であってほしいのです。

 

障害者に限らず、多種多様な方たちが生きる社会です。

生産性という物差しで見たら価値のない人たちであっても、

自分のペースで頑張っているんだと思ってあげて欲しいです。

 

私は、みんなが個性を持ってお互いの多様性を許し合って生きている限り、就労継続支援事業所にいる私たちも、健常者の皆様も、結局自分のペースで生きているはずだと思います。

 

そういう意味では生産性のある障害者と生産性のない障害者、さらには健常者を分ける必要がなくなるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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