頑張っていても、生きている意味がない存在だった
先日の相模原障害者殺傷事件では、
被害者のご遺族がこのように語っていました。
亡くなられた障害者の方たちはみんな頑張っていた、と。
だから殺さないでほしかった、と。
遺族の方たちの気持ちを思うと胸が痛みます。
その一方で容疑者は、「障害者は生きてる意味がない」と周囲に語っていたのです。
容疑者にとって、頑張っていたはずの彼らは「生きてる意味がない存在」で、
しかも報道を見ていると、彼らが頑張っていたという風には考えていなかったのではないでしょうか。
自分のペースで頑張るプロセス評価
人によって考えはさまざまだと思うのですが、
まず、
私は障害者福祉においては、結果や生産性だけでなく、頑張っているプロセス、
しかも自分のペースで頑張っているプロセスを評価しなくてはいけないと思います。
そうでないと、このような事件が起きてしまいます。
障害の程度によっては、頑張っているプロセスを確認しづらい障害者の方もおいでるのかもしれませんが、
そういう場合は、彼らがちゃんと自分のペースで頑張っているんだということ、そして単にそれを証明する手段がないだけだということを周囲の方たちが人々に周知していく必要があると思うのです。
(「権利擁護」や「アドボカシー」といった言葉もあるようです。)
もちろん、健常者の皆さんがどれだけ殺伐とした世界で結果や生産性を追い求めているかを思うと心苦しい話です。
私が通う障害者施設でさえ、私が口先だけで「頑張っている」というと、「どんな結果に結びつきましたか?」という話になります。
私が通う障害者施設は一般就労を目指す就労継続支援事業所でもあるので、生産性向上が皆の課題です。
世の中一般的には自分のペースで頑張っても、結果が出なかったら意味がないし、
本当は自分のペースを守っていてもだめで、世の中に追いつき追い越すようなペースでないと意味がないのだと思います。
障害者の地位向上
大多数の方たちがそうやって力を振り絞って世の中をあっと言わせるような結果を出し、生産性の向上に励んでいる中で、マイノリティな障害者の私としては、障害者がもっと社会的に評価されてほしいと願うわけです。
私は障害者の地位が改善したり、障害者が自立した存在になれたらいいと心から願っています。
健常者を驚かせるような結果や生産性で見返すことも手段のひとつではありますが、
障害者がいろんな複雑な事情を抱えながら頑張っているプロセスを社会から評価してもらうことも大事なのではないかと思います。
なぜかというと、そうすることで、社会が人々の多様性に対して寛大になるのではないかという思いがあるからです。
人は大なり小なり誰もが想像もつかないような事情を抱えて生きていると私は考えています。
健常者の皆さまもです!
ひとりひとりの中に「当たり前」とか「常識」というものがあり、そこからはみ出たものを排除することで、
自分を守り生きています。
異質なものは怖いし、秩序を乱すものでもあります。
ですが、本当は、社会は異質なものであふれているし、
人々は多様化しているのです!
多様性への理解
私は結果重視・生産性重視の社会に、障害者の頑張るプロセスを認めてほしいという話をしてきましたが、実はそれは、あるものさしに対して、別のものさしを用意してほしいという話でもあります。
人々の多様性を理解してほしいということです。
ある人にとっては当たり前でも、別のひとにとっては当たり前でないことがいっぱいあります。
それらにいちいち腹を立てるのではなく、寛大に受け止めることができたら、
みんなにとって住みよい世界が生まれるのではないかと思います。
きっと皆さんひとりひとりにとってもです!
障害者が結果・生産性重視の社会で低い評価を受け続けるだけでなく、
多様性理解のひとつのきっかけになったら、
障害者も生きやすくなるだけでなく、
障害者の社会的な位置づけ・意味合いが変わってくるのではないかと思ったりします。
以上、さややでした。
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