「あーあ、みんなのようになりたいな!」
誰もが一度は感じたことがあるのではないでしょうか。
いくら多様性の時代とはいえ、「自分以外のみんなはよくて自分はよくない。みんながうらやましいな」という考え方は消えてなくならないように思います。
例えばさややの例だと、
小学校のときに大縄跳びが苦手で、「なんでみんなはできるのに自分はできないのだろう」「みんながうらやましい」「私はおかしい」「私は悪い」と思っていました。
しかも、大縄跳びのできる方は当たり前にできるので、そういう方たちから「なんでできないの?」と厳しく言われたものです。
「みんなのようになりたい」願望は子供に限ったことではありません。
私の友人の女性は、彼氏がいるのに結婚できないことが悩みです。
30という年齢の節目を越えてしまった彼女の嘆き方といったら尋常ではありません。
みんなは30かそれより前に結婚したのに自分は結婚できなかったということを悲しく感じて、つらいのです。
目次
シンデレラのガラスの靴
有名な西洋占星術師である石井ゆかりさんは著書「愛する力。」で「みんなのようになりたい」という悩みについてこのように書いています。
シンデレラのガラスの靴は、
シンデレラの足にしか合いません。
(中略)
「自分に合うかどうか」は、
履いてみなければわからないのです。
「みんなと同じようにやったけれど、
みんなと同じようにならなかった」のであれば、
それは、あなたの靴ではなかったことになります。
でも、だからといって、
「自分の靴が存在しない」ということにはなりません。
(中略)
私たちは
私たち自身の靴を、自分の足で探しにゆけるのです。
私はこのたとえ話から4つのことを学びました。
シンデレラの靴を履きたくて履けない人が大多数である
みんなこぞってシンデレラになろうとしましたが、なれませんでした。
そんなとき、シンデレラになりきれなかった女性たちはどう感じたでしょうか。
「みんなのようになりたい」とは逆パターンです。この世にたった一人のシンデレラをうらめしく感じたはずです。
この世には「みんなのようになりたい」と願う人がいる一方で、「オンリーワン」になれなくて苦しむ人がいるのも事実です。
そして、本当はオンリーワンになれないことの方が問題となることだってあるのです。
みんなと違っていようと魔法がとけていようと
シンデレラは、普段は継母や義理の姉たちにいじめられてぼろぼろでした。
オンリーワンなシンデレラは、「みんなのようにお城へ行きたい」と言って泣きました。
シンデレラはみんなと違ってぼろぼろであることを悲しみました。
でも国中を回ってシンデレラを探している王子様からしたら、
魔法がかかっていようが、とけていようが、関係なかったのです。
シンデレラがみんなとは違っていても、王子様には関係ありませんでした。
頑張ってシンデレラの靴を履こうとする姿は滑稽である
誰かが誰かになりきろうとしている姿はとても滑稽です。
継母も義理の姉たちも、シンデレラになりきろうとしましたがなれませんでした。
継母や義理の姉たちは、みんなと同様、シンデレラになろうとしたのです。
しかしなれませんでした。
私たちが、「みんなのようになりたい」といってなろうとしている姿は、実はこれと同じことなのかもしれません。
「みんな」みたいに「シンデレラ」になろうとして、なれない。それが私たちの本当の姿かもしれません。
自分がシンデレラじゃないことに気付く痛みこそがスタート
石井ゆかりさんの言葉にあるように、シンデレラの靴ははけなくても、
自分に合った靴は存在します。
人は時には滑稽な姿を見せながらみんなの様子を真似てみんなと同様「シンデレラ」ではないことに気付きます。
でもそこからが、本当の幸せの幕開けかもしれません。
さいごに
私は障害者になったときに
自分がみんなと違う存在であることにとても傷つきました。
「みんなのようになりたいな!」と思ったものです。
本当は今でもそう思います。
ただ、もし本当に「みんな」と一緒だったら、継母や義理の姉たちのようなものです。
継母や義理の姉たちは、シンデレラにはなれなかったし、最高の幸せだって手にすることができなかったのです。
みんなのようにお城に行くことができずに泣いていたシンデレラが、最後にはみんながうらやむような幸せを手にするストーリーは本当に痛快です。
みんなに染まることが幸せとは限らないし、「みんな」みたいに「シンデレラ」になろうとして、なれないことだってあります。
私たちは本来みんなオンリーワンな存在なのだと思います。
それを忘れてみんなに染まりすぎると、継母や義理の姉たちのように、シンデレラの靴が履けなくて、
残念な思いをするのかもしれませんね!
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