コメディ編集部です。
さて、今回は認定作業療法士の藤島健一さんにインタビューしてみました。
藤島さんは昔は女性を追いかけてばかりだったそうですが、今は障がい者さん達とともに夢を追いかけてばかりのようです。
そんなちょっと不真面目だけど、実はとっても真面目な藤島さんにいろいろ聞いてみようかと思います。
作業療法士になる前はどんな方だったんですか?初恋は?!
えーいきなりですね!笑
関係あるのでしょうか?!笑
初恋は中学の時でずーっと片思いしておりました。でも付き合えなかったんです、、、。
そしてあれやらこれやら、いろんな妄想を一人でしていました。
あと、ちっちゃい頃はもっぱらの「野球少年」で、勉強はほとんどしておりませんでした。
小学校2年生から高校3年生まで野球一筋で突き進んできたことは私の自慢の一つです。
なぜ作業療法士を目指したのですか
高校生の時におばあちゃんが脳卒中になって初めて「リハビリテーション」というものを知りました。それまでは根っからの野球少年で全くリハビリテーションというものは知らない領域でした。
実家が石川県だったので県内の大学に行きたかったですが、国立大学は当時どうしても学力が足らず、北陸3県、中部エリアでリハビリの学校を探そうとしました。
その時に自分の母校の先輩が、岐阜の作業療法士養成校の事務スタッフになることを知り、当時の担任が、
「勉強はおまえできんけど、野球を一生懸命やってきたんやし、推薦してやっか?」
ということを言ってくださり、推薦で養成校に受かることができました。
きっと、普通に受験していたら確実に落ちていた。。。と思います。笑
学校生活はとにかく「遊び」がメインでした。特に女性との遊びを頑張っていました。笑
車も当時持つことができたので、とにかく遊んでいました。
授業も受けず、、、テストも受けず、、、。
相当問題児だったと思います。
しかしさすがに4年生になった時に、危機感を感じ少しずつ勉強し始めました。
特に臨床実習からは本格的に作業療法士の道へ突き進んでいきました。
ある精神科の実習地で自分の憧れの治療をする先生と出会い、そこから声をかけてもらい入社することになりました。とってもワクワクし、刺激的でした。
その先生はとにかく話術に長けていて、本当にレクリエーションなども人を巻き込むのが上手で魅力を感じていました。
また、とにかく信念が強くブレない強い方でした。
最初の配属は入院病棟ではなく、社会復帰施設などの部署で精神科デイケア、精神科ナイトケア、ケアホーム(現グループホーム)などの部署に配属されることになり、3年間そこで勤めました。
精神科医療はもちろん、作業療法士としても右も左もわからない中で、退院した方々の日中の場の支援や入所施設での当直などから、たくさんの方々に精神科医療について教わりました。
今になって考えると新卒時にその社会復帰施設などの部署で働けたことが、今の大きな糧になっていると感じます。
精神科病院での経験で得たきっかけ
4年目以降は入院病棟を担当しました。
急性期病棟から療養病棟まで精神科作業療法を中心に、手工芸・スポーツ・農業・料理教室・お菓子作り・リラクゼーションなど、たくさんのプログラムを通して治療させて頂きました。
特に力を入れたのが「退院促進教室」でした。
精神科病院では「社会的入院」と呼ばれる方がたくさんおり、20〜30年入院されている方が珍しくありませんでした。
中には40年以上入院されている方もいました。閉ざされた環境の中でしか生活できず、地域社会の中で生きる楽しさや厳しさを知ることのできない方がいることにカルチャーショックを受けたのを今でも忘れません。
やはり、リハビリテーション職として退院促進に携わりたいと強く感じました。
そして、作業療法士が中心となって退院促進教室というプログラムを立ち上げて、いろんな治療活動をしました。
ドクター呼んで疾病教室をしたり
栄養士を呼んで調理教室をしたり
薬剤師から服薬について学んだり
私たち作業療法士たちと共に外出訓練もしました。
バスや電車を使う訓練をした時には、20年ぶりにバスに乗った方が涙ながらに喜んでいました。
そんなプログラムをきっかけに12年間の入院生活から退院することができた方もいました。
20歳くらいの時に包丁を振りまわし警察に保護され、その後、医療保護入院で12年間入院生活を送りました。いつもふざけているばかりの冗談を言っている彼が
活動を通して
「社会にもう一度出たい!」
と強く願うようになり、家族とスタッフで何度も何度も話し合いながら外泊訓練を実施し、退院後のサポートも具体的に立案、サポートすることで退院が実現できました。
「藤島さん
本当にありがとう。
藤島さんのおかげでおれは退院できた。」
その時の瞬間がいまでも忘れません。
その方は今でも家族のサポート・地域活動支援センターを利用しながら社会で自立して生活されています。
そのあとも外来でたまに顔だしていましたが
「いつか
おれも働けるような場所も作ってね。」
と言われました。
この方も含め、「はたらきたい」と願う方々が多くいる事。
そして「はたらくこと」が地域社会で生活していくためにはとても重要な事。
私は病院を退職することを決心しました。
1人でも多くの障がい者が地域社会で活躍できる支援をするために・・・。
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