作業療法士の若手起業家に聞いた話。その1 〜何故、作業療法士になったか?〜

2016.1.7 インタビュー, いい話
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コメディ編集部です。

さて、コメディでは「病院」という枠だけに捉われず、在宅医療、または地域社会で広く活躍しているコメディカル職の方を随時インタビューしていきたいと思います。

 

単なる「浅い」インタビューでは面白くないので、大変傲慢ではございますが、基本的には「何でそんなことしてるの?」ということを「かなり深く」インタビューをさせて頂こうと思っています。

 

まずは第1回目として、
石川県金沢市、愛知県名古屋市で訪問看護(リハ)ステーション、障がい者就労支援事業所、デザイン、WEB製作、飲食事業など多角的に事業を担っている金沢QOL支援センター、代表取締役である作業療法士の岩下琢也さんにインタビューをしてみました。

 

そもそもなんで医療の道を志したのですか?ー

(編集)DSC_1541

そうですね。

実は今はこんな感じ(元気もりもり)ですが(笑)、私は小さい頃本当に身体が弱かったんです。

最初はこの世に生を受けた瞬間から、
先天性の心室中隔欠損症という病気を患っていまして、心臟の右心室と左心室の間に孔(穴)がありました。

運良く、大きな手術までには至らなかったようなのですが、
小さい頃は心臟の検診によく行ってましたし、運動には若干の制限がありました。
その心臟の病気自体はさほどしんどくなかったのですが、
一番はしんどかったのはもの心がついた時から「喘息」を患っていたことでした。

 

岩下琢也 

(喘息の時のイメージを本人にやってもらいました。)

 

小児の喘息は珍しくないと思いますが、私の場合本当につらいもので、
朝や運動時はいつも苦しくて肩で呼吸していたのを今でも覚えています。

季節の変わり目なんかは強い発作が起きやすく、地面に這いつくばってでしか動けないほど苦しかったですね。

朝晩の内服薬はもちろん、よくサルタノールインヘラーという携帯吸入器をもって、発作時に「シュッ」と吸入していました。

小学校の頃は喘息で、何回も学校を休みましたし、4回くらい入院もしましたね。ほんとにしんどかったです。

一般的にある程度身体が大きくなる小学校高学年~中学にかけての成長に合わせて気管支も太くなり治癒されるみたいなのですが、私の場合は高校に上がっても朝夕の薬は外せなかったですね。

 

そんな感じで、とにかく医療機関のお世話になることが多かったんですね。

そして、身体は成長していくにつれて少しずつ元気になっていったんですが、なんとな~く勉強もせずに、中学生活、高校生活を過ごしていました。

そして、高校3年生の進路を決めるときに、なかなか決めれずにすごーく悩んでいたんです。

 

私はいわゆる5教科はもっぱらダメで「0点」も数学ではよく採っていました。

高校は進学校だったのでセンター模試がありました。

もちろん全然わからなくて、いつもマークシートの塗りつぶしをいかに素敵な模様にするかに全力を注いでいましたね。(笑)
ハートやうんちマークをよく作っていました。(笑)

 

岩下琢也

(数学で「0点」を採った時のテンションをやってもらった。)

 

 

5教科は不得意でしたが、美術、図工、音楽、家庭などのあんまり「頭がイイ」と評価されない科目はいつも大得意でした。

今考えると、答えがあるわけでなく、自由に発想して自分を表現するクリエイティブなことが好きだったんだと思います。

 

特に音楽が大好きでピアノ、ギター、ベース、ドラム、パーカッションなど何でもやっていました。
友達と良く邦楽から洋楽までいろんなバンドのコピーもしていました。

 

やっぱり仕事をするなら自分の苦手なことだったり、弱みではなく、やっぱり自分の好きなことを仕事にしたいな~。と思い、最初は漫画家か、ミュージシャンになろうと思っていたんです。

ところがどっこい、安定するのかな~、ずっと本気でやれるのかな~、と現実味が帯びず、しっくり来てなかったんです。

 

そんな時、母親(看護師)から

 

「あなた、そういうの(芸術的なこと)が好きなんならそれを活かしてできる医療の職業あるし、なれば?」と。

 

 

 

「自分の好きなことを通して患者さんの治療ができる!?」

 

 

岩下琢也

 

それを知って、なんか面白そうな職業やな。
と思い、作業療法士になるには?という本をたくさん読みました。読んでワクワクしていたのを覚えています。

小さい頃。病院の先生も看護師さんも本当に優しく接してくれていたこともあり、
それこそ「医療」というものに漠然と憧れていたんだと思います。

 

自分の好きなことを通して、自分が小さい頃からの憧れの存在になれる。
ということにスイッチが入り、完全にド文系頭でしたが、生物や数学の勉強をすこぶる頑張ってなんとか、作業療法士の学校に滑り込みセーフで入学することができました。

 

 

作業療法士になってから、最初はどのように働いていたのですか?ー

(編集)DSC_1448

 

作業療法士になって最初の職場は「精神科」を選択しました。

なぜ精神科を選択したかというと、精神科は20~30歳代の若い患者さんが多い。
その若い方、生産年齢の方達の社会復帰を担えるのは、リハビリテーション職として患者さんにも、社会にも非常に価値のあることではないか。

と思ったからです。

 

しかし、精神科を経験すると本当に大変であり、残念な体験もたくさんしましたね。

まず、現在でもそうなのですが精神科はいわゆる「社会的入院※1」の方がたくさんいらっしゃいまして、20~30年入院している方が珍しくありませんでした。
1つの病院にとどまらず、何度も転院を繰り返して社会に参加できていない精神障害の方もたくさんいました。

 

私は、そういった長期入院している患者さん達に、「精神科作業療法※2」という形で仕事を担っていました。

 

※1 「社会的入院」…医学的には入院の必要がなく、在宅での療養が可能であるにもかかわらず、ケアの担い手がいないなど家庭の事情や引き取り拒否により病院で生活をしている状態。

※2 「精神科作業療法」…精神障害を持った方の社会復帰を目的に行われるリハビリテーション。作業療法の作業(Occupation)とは日常生活、仕事、遊びなど人間の日常生活全般に関わる諸活動をいう。 精神科作業療法では日々の生活で行われる様々な作業、活動を通して、精神症状の安定、コミュニケーション能力の向上、社会参加を促していく。

 

 

治療、仕事自体は大変なこともありましたが、本当に楽しかったです。
それこそ患者さん以上に「作業」を楽しみ、陶芸、革細工、パソコン、編み物、料理、音楽療法など、できることはなんでもやっていました。

もちろん、ただそれらを提供するのではなく、「治療的」に用いることで初めて作業療法になります。

園芸療法

 

特に気合が入ったのは「園芸療法(農耕)」でした。

荒れた土地を患者さん達と開拓し、農業に詳しい患者さんかに色々教えてもらって、たくさんの野菜を収穫しましたね。

そして患者さん達は、耕す⇒種まき⇒水やり、除草⇒収穫 といった一連の作業で活動性の向上や症状の軽減に繋がっていました。

 

しかし、様々な作業療法を実施しておりましたが、「社会的入院」の方が退院に至ることはほとんどありませんでした。

そんな中でも、なんとか主治医、看護師、ワーカーさんと掛けあって退院に至るケースもありましたが、数日、数週間でまた警察沙汰になり戻ってきたりと残念なことが珍しくありませんでした。

 

「若い患者さん達を退院してもらって幸せになってもらいたいのに、、、」

 

「こんなに症状は落ち着いているのに、何故ずっと入院しとらなアカンのや、、、」

 

と気持ちだけが焦り、日々悶々とし仕事をしていたことあります。

そして、いろんな経緯があり、地元の石川県金沢市に帰ることが決まり2年でその精神科病院を退職することになりました。

 

退職する1週間前くらいでしょうか。

精神科では退職の意を患者さんに伝えるときに少し気を使うのですが(不安や依存が強い方が、スタッフの離職で不安定になる可能性があるため)、ある安定した患者さんに自分の退職を伝えました。

 

その患者さんは40代、男性。

 

統合失調症(破瓜型)という病名で陰性症状(喜怒哀楽などの感情が乏しい、引きこもりなど)、コミュニケーション障害が著しい方でした。

しかし、作業療法活動の中で、その方の好きな活動を通して信頼関係を築きながら、やりたいこと、思いなどを真摯に聞いたりし、少しずつ活動性や意思表示が豊かになっていき、私自身もすごくやりがいをもって治療していた患者さんの一人でした。

 

ただ、意思表示が豊かになっていった。と言ってもこちらの質問などに対して、頷いたり、首を横にふったり、又は「うん」「ううん」というようなわずかな言葉を発する程度でした。

 

私は退職の挨拶をその患者さんに伝えました。

 

「◯◯さんは私が好き勝手?いろいろな作業、活動をやっていたのを、

いつも参加してくれて、助けてくれて、教えてくれて嬉しかったです。今までありがとうございました。」

 

すると、、、

 

今までほとんど言葉を発することも少なかったその患者さんが、、、

 

 

 

 

 

 

「岩下さんが来てくれて、本当にいろいろできて入院生活が楽しくなったよ。こちらこそありがとうね。次の所でも頑張ってね。」

 

 

 

 

 

 

 

と言ってくれたんです。

 

 

私は涙が止まりませんでした。

 

 

それと同時に明瞭な「思い」が生まれました。

 

 

 

 

「こんなに心がキレイな方が社会で活躍できないのはおかしいやろ!!」

 

 

 

「入院生活が楽しくなったったよ。ーてどういうことやねん。
地域に出て、社会に参加したらきっともっと楽しくなれるのに!!」

 

 

 

「障がい者が《障害があるから問題》があるんじゃない!!

障がい者が社会参加できない《社会が問題》やん!!」

 

 

 

 

と強く思いました。
なんというかですね。
悲しく、憤りさえもありましたが、自分が長期的なビジョンの中で解決していかなきゃいけないミッションなんだな。とその時心に決めました。

 

でも、どのような経緯で「創業」を決心したのですか?ー

退職後は地元の大学に入り直し、医療職として研究を学ぶことを選択していたので、当時は「精神障害の方の社会復帰を支援できるような研究をしていきたい!」

ということを思っていました。

岩下琢也

 

大学在宅中には「回復期のリハビリテーション病院」や「認知症デイサービス」など作業療法士として精神科とは違った領域の分野も経験したのですが、どの職場でも共通して思ったことが1つありました。

 

やっぱり作業療法士として本当に患者さん、高齢者さんを幸せにできるのは施設や病院じゃ無い気がするな、、、。施設は病院は「問題」や「症状」に対してアプローチできても、「人生」「生活」に対しては十分なアプローチはできないんじゃ、、、。

 

自分の理想の医療を提供したいな。
課題は常に地域や社会にあり、地域医療の充実がまず必要だな。
と体感することができました。

 

研究職を通してそのような社会問題、地域医療の貢献に寄与する。というミッションも自分にとっては筋が通った形にはなったと思うですが、やっぱり「現場」が好きだったんですね。

そして行き着いた願望は、

 

自分が理想とする地域医療、在宅ケアの事業所を作りたい!!!

高齢者さんでも障害者さんでも皆が活躍できるような社会を作りたい!!!

 

(編集2)DSC_1513

 

という確信を持つことができ、26歳で独立し、27歳で法人設立、代表者になろう!と23歳の時、決めました。

 

 

何故、医療職で安定しているのに独立なのか。ー

 

ということをたくさんの人に聞かれ、時に否定もされました。
しかし、自身が独立して事業を担うことが、自分の理想の地域医療の推進の為の最も近道であると思ったのです。
そして思い、情熱、価値観は自身の「安定」というものより、上位の概念になったという感じです。

その決心の後、起業に向けての「挑戦」と「努力」がスタートしたのです。

 

その2「時には苦労した法人設立の話」へ続く。。。

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